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6.12.2008

変遷

``罪を憎んで人を憎まず''

私にとってこの言葉の意味は長くかけて変遷してきた。子供の頃、私が通う学校では道徳教育という不可思議な授業があった。ちなみにその授業は嫌いだったのだが、おそらくこの言葉はその頃に初めて聞いたのだろう。その時に得た知見は、これは性善説に基づく行動原理なのだろうということだった。人を憎しみの対象とせずに努めることが美徳であり、善き市民ひいては善き社会に欠かせないのだと。

しかし歳を経て、世の中の現実に触れ、そして何より空回りする体力を得るにつれ、人が人らしく生きるというのは感情の発露が理と結び付くことにあるはずだ、という考えて変わっていった。つまりは、性善説など信じるに足らないし、それを万人の行動原理としたところで社会が生まれるわけないのだと。だから市場原理こそが唯一の足枷となるべきだと思ったのだ。

ところが最近、この言葉は全く違う原理から出てきたのだと思うようになってきた。省かれた主語は何か、貴方かあるいは私か。いずれにしろ最汎的には人であろう。つまり人であれば、他人を憎まずかつその他人の為す罪を憎むである。これは論理的な一命題に過ぎないのではないだろうか。もし人が人を憎めるとすると、それは人が悪を孕み悪を為すという事である。しかし悪を孕み悪を為す者にとっては一体なにが罪であろうか。もしそのような者の存在を認めるならば、悪はその者の本質に過ぎない。あたかも熊が魚を捕食し、あたかも虎が子牛の臓物を貪り、あるいはあたかも人が牛を喰らうように。それは自然の法であり、傍から見れば悪は事故であり、そして人の為す罪とはならない。牛を食う人が、牛を食う他の人に対し、どのような理屈をつけて牛を食うことを憎めるのか。最初の仮定人が人を憎めるとするは矛盾を導くから、これを否定しなければならないのである。或いは、
``その人を憎むかその人の為した罪を憎まないならば、それは人ではない''

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Taito, Tokyo, Japan
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