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7.14.2008

「セックスと嘘とビデオテープとウソ」と私

ドキュメンタリー監督 松江哲明 (Wikipedia)
阿佐ヶ谷LoftAで二本のドキュメントフィルムが上映された。松江哲明の視る目、気付く目を通して、観客は確かな映像、作家の個性と対話しのだった。独立系AVスタジオHMJMの設立を追い駆けたドキュメント「ハメ撮りの夜明け 完結編」は、監督本人が語るように被写体との関係性が断絶した世界を取材するAVである。極めて私的な領域に踏み込み、映像作家としての狡猾さを垣間魅せたもう一本の作品は、「完結編」の終劇から4年後を抉りとった快作「セックスと嘘とビデオテープとウソ」である。一線を踏み越えた後ろめたさが場内を覆った新作からは、作家としての聖域に踏み込んだ事を予感させる。

AVについて話す場合、その視点は四つに分類する事が出来よう。事を処すべく用意した映像を男が視る場合と女が視る場合、或いは事が処される様を映した物を男が視る場合と女が視る場合。この四つの局面はそれぞれに時間と空間を異にして存在している。

まず事を処すべく用意した映像を男が視るという状況から述べねばなるまい。これはソフト・オン・デマンドを筆頭にしたエンタテインメント作品として進化、素材と手法と品質の深化という方向である。畢竟いまの先鋭化された、また見方を変えれば鈍化した工業的な商品群を指す。次に事が処される様を映した物を男が視る場合を述べる必要がある。これこそが「ハメ撮りの夜明け」の追い求めた、つまりHMJMが求めた、もっと言えばかつてのV&Rが作った(伝説的な)ハメ撮り作品(例えば「私を女優にしてください」)である。一組になった演者と撮る者を映像として客体化し、その媒体を通して語りえない何かを夢想するという(ある意味で)野心的な作品群がかつては存在した。男の論理という軸について、まずこの相反するベクトルがある。

次にそれと直交して女の軸が展開される。この軸は内奥性あるいは個性の連続性として理解される。一方の端には、映像として切り取られた個性の断片を通して情緒の再構築を目指す見方、「セックスと嘘とビデオテープとウソ」で松江が見事に昇華させた、人の心の境界線を綱渡りする行為がある。また一方には、一切の言語化を否定して(ただ肉欲に溺れて)行く先に待ち受ける不連続点で個性を完結させる方向、「ハメ撮りの夜明け」の劇中に出現する度し難い欲求の素人が居る。言うまでもなく、この軸で言う前者の方向は基本的に映像化されず、後者は先の男の論理と手を組んで広大な消費者市場を形成する。

まるで複素平面のように、それぞれの方向単位が調和関係にあるこの欲望曼荼羅の中を、松江哲明という人間は螺旋状に放射して行っているのではないかと思わせる節がある。一夜の上映で、ある男の論理とある女の欲望が交差する一端から、また別の男の論理がまた別の女の感情と衝突する一端へ、事も無げに跳躍する様を魅せたのである。サド侯爵という特異な、ある意味で神的なまでに封建的な自由人を、三島由紀夫は「無垢な悦びが増長して怪物となり、やがて何人も寄り付かぬ聖域」として描いてみせた新劇を、私は思い起こさずにはおれないのだった。

6.05.2008

私は裸であるか?

血と薔薇コレクションI
血と薔薇コレクションII
血と薔薇コレクションIII
澁澤龍彦が編集をつとめ、三島由紀夫、埴谷雄高らを筆頭に錚々たる顔触れが執筆した雑誌「血と薔薇」の冒頭は次にようにある。

本誌「血と薔薇」は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。

またこうもある。

本来、エロスの運動は恣意的かつ遍在的であるから、エロティシズムは何ら体系や思想を志すものではないが、階級的・人種的その他、あらゆる分化的対立を同一平面上に解体、均等化するものは、エロティシズムに他ならないと私たちは考える。
性を前にした笑いの本質を、私たちはジョルジュ・バタイユ氏にならって、恐怖のあらわれであると規定する。

このような宣言の上で投稿されるエッセイをして、これを悪書、それもとびっきりの悪書と云わずして何と云おうか。そしてこの悪書に心を奪われ、蝕まれ、呑み込まれて行くほどに、その逆側の存在と因果に身を委ねる事になるのである。

悪魔を信じぬ者は神をも信じぬ者である!
- Peter Cushing, ``Twins of Evil''


MADAME EDWARDA
エロティシズムにメスを入れ、見事なまでの理論へと昇華していった思想家がジョルジュ・バタイユである。バタイユの卓越した論理と表現が結実した小品「マダム・エドワルダ」の冒頭、きみは心得ておるか、人間はどれほどまでに<<きみそのもの>>であるか?愚かで?そして裸であるか?とある。そこに私は戦慄を禁じえない程の衝撃を受けるのだ。如何なる自由でもって私は私そのものであるなどと云えるのか、と。

THEORIE DE LA RELIGION
バタイユの思想はその基礎を、少なからずモースの贈与論によっていると感じる。死後出版された「宗教の理論」は、贈与の原理を基点にして動物性、風習、信仰、観念、道徳、社会、法律、宗教、戦争、経済の形成と連鎖を追尾する。そしてまさに、その工程で想起される"思考の領域を蕩尽していく"ことで、贈与の原理の内に人間が持つ根源的核心、彼流に云えば不連続点を越えた連続性へと迫るのである。

エロティシズムは死に至るまでの生命の肯定であります。(中略)肉体および心情のエロティシズムを越えたところにある、どちらかといえば後者に近い<<精神的>>エロティシズムは、もはやお互い同士の出会いに依存しない、個々の死がわれわれのなかで消滅させない連続性への通路を捜し求めます。(中略)エロティシズムのみが、われわれを存在の連続性の前にくりひろげ、それだけがわれわれの前に存在の盲目的戯れをくりひろげるのです。
- 講演, ``エロティシズムと死の誘惑''

果たして彼が存命中に公開に踏み切らなかったノートは、エロティシズム以外の方法で不連続点の跳躍を可能としたのだろうか。あるいは死の誘惑の彼方に、「神」という無限の連続性を感じたのだろうか。

幾何的散乱理論
散乱理論は波動関数、の汎函数、が障害によってどのような散乱を起こすかを説明する理論である。そして現在取り組まれている数理的な視点の一つは、この障害である不連続条件を無限遠点と考え、その近傍での汎函数の展開を調べる、というものである。バタイユが夢想した人間性の根源、自由の所在は、またも物理学と邂逅するのではないか。そう思わずには居られないのである。

5.28.2008

失われたゴヤのスケッチ

'Missing' Goya sketches
失なわれたゴヤのスケッチがオークションにかけられているとのこと。オークションの主催者によれば、スケッチは枠に入れられたことも、また光に長時間晒されたこともなく、極めて良い状態とのことである。素晴しい、私の財布にもう10億円ほどあれば迷わず買いつけるのだが。

スケッチは3点あるとのことだが、ウェブで探した限りだと次の二点しか分からない。
image by Telegraph
image by BBC

ところで、枠に入れられたこともない、というのはどの段階なのだろう。スケッチだから画布がそのままの状態で手付かずということだろうか。一般的にキャンバスというと木材でキャンバス枠を組み、画布をピンと貼った状態で打ちつけ、ニカワを塗る。貧乏な学生は、一度打った釘を抜いてまた別の画布を貼ったりするものである(なので手伝う際には釘を抜き易いよう丁寧に打つ事!)。ちなみに、一度塗上がった画布を軽々しく丸めるなどしてはいけない。キャンバスに塗り付けられた顔料は見るも無惨に剥れ落ちてしまうだろう。

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Taito, Tokyo, Japan
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