ドキュメンタリー監督 松江哲明 (Wikipedia)
阿佐ヶ谷LoftAで二本のドキュメントフィルムが上映された。松江哲明の視る目、気付く目を通して、観客は確かな映像、作家の個性と対話しのだった。独立系AVスタジオHMJMの設立を追い駆けたドキュメント「ハメ撮りの夜明け 完結編」は、監督本人が語るように被写体との関係性が断絶した世界を取材するAVである。極めて私的な領域に踏み込み、映像作家としての狡猾さを垣間魅せたもう一本の作品は、「完結編」の終劇から4年後を抉りとった快作「セックスと嘘とビデオテープとウソ」である。一線を踏み越えた後ろめたさが場内を覆った新作からは、作家としての聖域に踏み込んだ事を予感させる。
AVについて話す場合、その視点は四つに分類する事が出来よう。事を処すべく用意した映像を男が視る場合と女が視る場合、或いは事が処される様を映した物を男が視る場合と女が視る場合。この四つの局面はそれぞれに時間と空間を異にして存在している。
まず事を処すべく用意した映像を男が視るという状況から述べねばなるまい。これはソフト・オン・デマンドを筆頭にしたエンタテインメント作品として進化、素材と手法と品質の深化という方向である。畢竟いまの先鋭化された、また見方を変えれば鈍化した工業的な商品群を指す。次に事が処される様を映した物を男が視る場合を述べる必要がある。これこそが「ハメ撮りの夜明け」の追い求めた、つまりHMJMが求めた、もっと言えばかつてのV&Rが作った(伝説的な)ハメ撮り作品(例えば「私を女優にしてください」)である。一組になった演者と撮る者を映像として客体化し、その媒体を通して語りえない何かを夢想するという(ある意味で)野心的な作品群がかつては存在した。男の論理という軸について、まずこの相反するベクトルがある。
次にそれと直交して女の軸が展開される。この軸は内奥性あるいは個性の連続性として理解される。一方の端には、映像として切り取られた個性の断片を通して情緒の再構築を目指す見方、「セックスと嘘とビデオテープとウソ」で松江が見事に昇華させた、人の心の境界線を綱渡りする行為がある。また一方には、一切の言語化を否定して(ただ肉欲に溺れて)行く先に待ち受ける不連続点で個性を完結させる方向、「ハメ撮りの夜明け」の劇中に出現する度し難い欲求の素人が居る。言うまでもなく、この軸で言う前者の方向は基本的に映像化されず、後者は先の男の論理と手を組んで広大な消費者市場を形成する。
まるで複素平面のように、それぞれの方向単位が調和関係にあるこの欲望曼荼羅の中を、松江哲明という人間は螺旋状に放射して行っているのではないかと思わせる節がある。一夜の上映で、ある男の論理とある女の欲望が交差する一端から、また別の男の論理がまた別の女の感情と衝突する一端へ、事も無げに跳躍する様を魅せたのである。サド侯爵という特異な、ある意味で神的なまでに封建的な自由人を、三島由紀夫は「無垢な悦びが増長して怪物となり、やがて何人も寄り付かぬ聖域」として描いてみせた新劇を、私は思い起こさずにはおれないのだった。
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