血と薔薇コレクションII
血と薔薇コレクションIII
澁澤龍彦が編集をつとめ、三島由紀夫、埴谷雄高らを筆頭に錚々たる顔触れが執筆した雑誌「血と薔薇」の冒頭は次にようにある。
本誌「血と薔薇」は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。
またこうもある。
本来、エロスの運動は恣意的かつ遍在的であるから、エロティシズムは何ら体系や思想を志すものではないが、階級的・人種的その他、あらゆる分化的対立を同一平面上に解体、均等化するものは、エロティシズムに他ならないと私たちは考える。
性を前にした笑いの本質を、私たちはジョルジュ・バタイユ氏にならって、恐怖のあらわれであると規定する。
このような宣言の上で投稿されるエッセイをして、これを悪書、それもとびっきりの悪書と云わずして何と云おうか。そしてこの悪書に心を奪われ、蝕まれ、呑み込まれて行くほどに、その逆側の存在と因果に身を委ねる事になるのである。
悪魔を信じぬ者は神をも信じぬ者である!
- Peter Cushing, ``Twins of Evil''
MADAME EDWARDA
エロティシズムにメスを入れ、見事なまでの理論へと昇華していった思想家がジョルジュ・バタイユである。バタイユの卓越した論理と表現が結実した小品「マダム・エドワルダ」の冒頭、
きみは心得ておるか、人間はどれほどまでに<<きみそのもの>>であるか?愚かで?そして裸であるか?とある。そこに私は戦慄を禁じえない程の衝撃を受けるのだ。如何なる自由でもって私は私そのものであるなどと云えるのか、と。
THEORIE DE LA RELIGION
バタイユの思想はその基礎を、少なからずモースの贈与論によっていると感じる。死後出版された「宗教の理論」は、贈与の原理を基点にして動物性、風習、信仰、観念、道徳、社会、法律、宗教、戦争、経済の形成と連鎖を追尾する。そしてまさに、その工程で想起される"思考の領域を蕩尽していく"ことで、贈与の原理の内に人間が持つ根源的核心、彼流に云えば不連続点を越えた連続性へと迫るのである。
エロティシズムは死に至るまでの生命の肯定であります。(中略)肉体および心情のエロティシズムを越えたところにある、どちらかといえば後者に近い<<精神的>>エロティシズムは、もはやお互い同士の出会いに依存しない、個々の死がわれわれのなかで消滅させない連続性への通路を捜し求めます。(中略)エロティシズムのみが、われわれを存在の連続性の前にくりひろげ、それだけがわれわれの前に存在の盲目的戯れをくりひろげるのです。
- 講演, ``エロティシズムと死の誘惑''
果たして彼が存命中に公開に踏み切らなかったノートは、エロティシズム以外の方法で不連続点の跳躍を可能としたのだろうか。あるいは死の誘惑の彼方に、「神」という無限の連続性を感じたのだろうか。
幾何的散乱理論
散乱理論は波動関数、の汎函数、が障害によってどのような散乱を起こすかを説明する理論である。そして現在取り組まれている数理的な視点の一つは、この障害である不連続条件を無限遠点と考え、その近傍での汎函数の展開を調べる、というものである。バタイユが夢想した人間性の根源、自由の所在は、またも物理学と邂逅するのではないか。そう思わずには居られないのである。
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