「ブラウン管の向こうの争いは何だか絵空事のように見えてしまう、ここが戦場の後方でしかないというのに」と言ったのはどこの隊長だったか。寝坊をしていなければ、自分もあの時その場所に居たかと思うと、もはや他人事ではなく、鼻先につきつけられた恐怖である。しかしそうであったとしても、私は自衛のために何かを持とうなどとは思はないし、警察や自治組織による先行的な取締も望みはしないのだ。
Afghan reporter is shot dead
BBCのアフガン取材員の撃たれた遺体が発見された。
'Twelve die' in Algerian blasts
アルジェリアでの駅爆破事件では12名が亡くなった。
(日常であるが故に)大きく取り上げられていないだろうが、アメリカでは昨日も多数の銃犯罪が起っただろう。この週末は洪水や作業現場の事故で亡くなった人も少なくはない。だが、それより圧倒的な数の死が、人間によってもたらされているのが事実なのだ。殺人は世界中で、日々刻々と続けられているのである。
思い出して欲しい、2001年9月11日の悲劇は、まさに悲劇であって、決して何かのミスや事故では無かった。どれほどに屈強な警備を敷き、二重三重の仕掛けがあっても、私たちは鉄格子の向こうで暮らしているわけではないし、世界有数の経済大国であっても、稼ぎなくして生きる事はままならないのであって、自由の下に時に文化人として、時に経済人として、時に工作人として、行動する。起こりうることは起こりうるのであり、ましてそこに明確な意図が存在して、そしてその意図にとって悲劇が手段であり目的であったならば、その意図を叩く以外に何をもってこれを防ぐことが出来るのか。
だが、と立ち止まらなければならない。一体何者が、そして如何なる理屈が、未然に狂気を取り締まるというのか。それはまるで一種の暴力である。もし斯様に暴力が、つまり狂気を正すべく行使される思想的・物理的な力が、正義である狂気あらざる意思、の上にに欠かすことが出来ないと云うのなら、畢竟、如何なる正義も暴力の前に憚るのである。考えてみてほしい、狂気は一人の正義に過ぎないし、此れを辞して彼等を保つとは、命を数で見るということに他ならない。
Post hoc ergo propter hoc.
(これの後、従ってこれ故に)
この間違った論理は、被害感情を伴うことで幾らでも増長してしまう。時系列で見れば何でも「これの後にあれが続く」のであって、「これで無ければあれでは無い」という事とは全く別である。しかしだからと言って、万事塞翁が馬としてあるがままにしておく事も適うまい。自由はおそらく高くつく。おそらく不自由であるよりずっと危険である。だがしかし、私は自衛の手段だとして武装することも、また危険な思想だとして意見を退けることもしたくはないのである。リンカーンが言ったように、たとえこちらに非が無く全く正しいのだとしても、被害が出るのであればこれを避けるのが善いのだと思う。
それでもなお生まれる悲劇を前に、まさにその悲劇を悪だとする以外の救いがあろうか。
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