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マイケル・ムーアの作品は一つも見たことがない。ただ紹介動画が店頭で流されていたのを見て気になったのは、果たしてこの人は実は無知なのか激情肌なのかと怪訝に思ってしまった事、と同時に、この映画が世界中でヒットするという情勢に戦慄を禁じえない事だ。
例えばその時に液晶モニタに映っていたのは、刑務所に向かって拡声器で訴えかける映像で、9.11で怪我を負った人間には(生命保険等の)十分な救済措置が取られていないにも関わらず刑務所の人間は罪を犯してなお衣食住の足りた生活を(我々の税金で)送っているのはどう思う、と云っていた。もし刑務所の人間の良心に訴えかけて更正を願う行為であれば、方法自体の能の無さはともかくとして、分からないでもない。しかし映画の主題や演出からしてそうではないだろう。つまり、罪人に税金を払うより医療制度の充実を図るべきであり、そもそも被害者を生み出す罪人などどうにでもなってしまえ、というのが撮り手のメッセージだと受け取れてしまう。
罪を犯した者を司法機関が罰し、特定私設で監視のもと更正に勤めさせる、という仕組みは、社会が罪人に与える優しさなのではなく、罪人を生み出した社会(ひいては私たち)のノルマである。罪人がアウト・ローとしてノサバリ、またクタバルことを法治国家は認めていない。犯罪の定義から罰の仔細まで含めて法律なのだから、果たしてどんな絶対者がこの法を超越して罪を取り扱う事が出来ようか。だから刑務所の運営に費用がかかる事も、またその費用が政府の歳入で賄われる事も、さらに私設の中で拷問が行われない事も、その社会に属する人間にとっては(意識しているかどうかに関わらず)承諾事項なのだ。この中でより善い生活を目指して(罪を犯さない或いは犯罪が減る)行動規範を模索していくのが、(こと刑法が目的とする意味での)社会的な発展である。
前提となる目的意識は(その抽象的な到達点の解釈の自由は)ともかくとして、だがしかし万人の合意による社会規範というのは望まれるものでは"まったく"ない。社会全体が合意することの恐ろしさが人類の歴史では度々証明されてきたにも関わらず、マイケル・ムーアの作品が"世界的にヒットする"という観客の心理構造に私は戦慄するのである。
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