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6.30.2008

ロマンを追う男

これはかつて旧日本海軍の二等航海士だった御人から窺った話である。その歳を考慮してみれば幾らか事実とは異なるのかもしれない。しかし民間で航海士を務めた他の方からもある程度は同意があったという事は前もって補足しておこう。

古くから船乗りは男であった。そして今も基本的にはそうである。というのはそれが大変効率的であるからだ。恐らくこれは誤解を呼ぶ点であるから説明する必要があるだろう。たとえば大型船における何かしら(操船なり機関室なり)の船員資格を取る事に男女の区別は無い、しかし実務に際してチームが組まれることは非常に稀有なのだ。海に居る限り産休は無いからである。また狭い空間に装備を敷き詰めた船内に、男女の区別を要する設備もまた贅沢なのだ。海という自然と向き合っている限り万事が万事であり人の都合は存在しない。怪我人が出ようが港には戻れない。そこは純化されたリアリズムの支配する世界なのである。

自然と対峙する為のリアリズム、これが海の仕事を司る行動原理である事は想像に難くない。その中にあっては人は船を機能させる歯車の一つでなければならない。どんなに人間関係が悪かろうとも、港を離れる準備が始まれば分担に従って速やかに行動する。これを律するために階級が存在し、上に立つ者の裁量が試される。昨今の日本船舶の船員は外国人を雇う場合が多いそうだが、一昔前は刺青を入れた者が多かったそうである。休憩中に甲板を散歩していれば突然後ろから殴りかかられることもある、特に上官は。そこで上官が示さねばならないのは力なのだそうだ。この人には逆らわない、信頼できる、という無保証な信用を獲得するためには、力を力でねじ伏せ、言葉は言葉で論破する器が求められる。そうやって築かれる階級のピラミッドが、嵐や違法な連中などから荷を守りぬき、船員たちを安全に帰宅させることを可能にする。

護衛艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事案
船乗りにとってこの海域は操船の腕が試される難しい領域だそうである。自衛艦(またかつては旧日本海軍)などの大型船舶の航路上は排出物の影響で魚が集まりやすい。そのため多くの漁船は大型船舶の航路上(!)に網をかけて漁をするのである。常識的に考えれば漁船の非常識さが目立つわけだが、彼らには彼らの生活がかかっているし、そのおかげで喰えているのは内地の人間なのだから、大型船舶乗りにとってこれを避けるために操船技術を駆使する事は常識だったのだそうだ。これを考えれば、作業中の漁師は(漁自体非常に忙しい作業なので)船舶の接近に気付く余地は無いし、また護衛艦の航法装置が漁船のような小さな対象を回避するわけもなく、起こるべくして起こった事故であると云うよりあるまい。当然ながら乗船していた自衛隊員の過失である。だが犯罪は言い過ぎにも程がある。

しかし本当の問題は、船乗りの技術や意識の低下にあるという。その昔、船舶は移動や流通の生命線でありまた防衛行動の明確な表現であった。政府からは手厚い待遇が保証される、と同時に高い精度と質が求められた。つまり優秀な貧乏人が出世する手段は海に出ることだったのである。ところが今や旅行や小型貨物は飛行機が中心となり、船舶の出番は資源輸送くらいしかない。自由経済が謳歌を始めると、資源輸出入企業はより柔軟にコスト削減に乗り出す。出来るだけ安いタンカーを、出来るだけ安い航法装置を、出来るだけ安いスタッフを。そうやって生まれた利益の大部分は陸上で契約書を取りまとめる人間とトレーダーに集中する。船乗りの質が低下するのは自明といえるだろう。
今後も日本で海の事故は増えるでしょうね。悲しい限りです

こういってはなんだが、今後も海の仕事の価値が向上することは難しいだろう。海上油田やその運搬については改善される可能性が多いにあろうが、それ以外のほとんどの海の仕事の未来は暗い。その分いまの日本は何に力を注いでいるのだろう、という疑問がふっと頭を過ぎるのだった。

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