back numbers

5.12.2009

Deux ou trois choses que je sais le calcul

「計算」という言葉について考えてみる
ranhaさんが計算とは"何か"を思索をされていて、その答えは恐らくまだ誰も分からないのだけど、計算機科学に携わる者だけでなく、およそ計算機に関わる誰もが心の中では、その"何か"を思っていることだと思う。だから私も個人的な"何か"を述べよう。

"何か"って既にあるのかしら、まだ無いのかしら?という点は考える余地があると思う。既にあるのなら、私達の思索という行為は遺跡の発掘のように、文字通り「既に」あって私達の思索という領域を支配している仕掛けを見つけ出す作業に他ならない。それは個人を超えて普遍的な仕掛けだろう。だがもしまだ無いのなら、私達の思索の領域は不可逆な経験を経る事で、橋を渡るようにして別の思索の領域に到達することになる。その経験を知識や概念と呼ぶのであれば、個人の思索は死によって頂点(或いは最大不動点)に達するのだろう。いずれにしろ物理法則へと、私達の思索は漸近する。いやしかし物理法則は、現象へと漸近させていくのが科学者の使命ではないか、、この話はよそう。その"何か"が既にあるか、或いはまだ無いか、ともかく時間を超越して存在を認めよう。

"何か"を語るとはどういう事か?と、自覚的に考えてみよう。その"何か"を理解する状況とはどのように可能なのか。三つ挙げてみる。

一つ目は、あるsyntaxを使って構成したモデルが"何か"だと述べる状況だ。これに従えば、計算機上のプログラムはTuring完全な言語であれば書くことが可能であり、そして書かれたプログラムだけが計算なのである。つまりは、その言語の中に留まる限りにおいて牧歌的な楽園が約束される。一体なにを心配する必要があろう、"その言語"で思うがままに計算をするが良い。だがやがてサピア・ウォーフ仮説の生き証人となるであろう。たとえバイナリこそが真実だと言ったところで、事態は変わらないのである。

二つ目は、syntaxと独立して"何か"が存在し、しかるべき形式でsyntaxへと埋め込まれる。従って、プログラムはその言語の構造との対応として現われる。だから私達は、ある"何か"が必ずまた別の姿形をして存在(対応)すると信じるのである。カリー・ハワード同型対応はその真理の一端である。であれば、大きな圏Cで同型対応τによる商圏C/τを考えることが"何か"への道かもしれない。

三つ目は、計算は存在などしない。私達は存在しないものについて、沈黙しなければならない。一方で存在するものはただ存在し、それを指して"何か"だと述べるのだ。だから私達は何の断りもなく、対象を認め、対象への算術を認め、再帰した算術を認め、任意のNについての再帰を認め、しかし無限を認めない。

「標準的自然数の定義」占い
こういったメタりっくな語り口を考えるなら、ここで挙げられている本が足掛りになるはずだ。でも幾らヘヴィにメタっても、私達が自由に使いたい"何か"との隔りは決して小さなものではないだろう。だって論理で見た代数はあまりに不恰好だから、、

# the Group Axioms in FO
∀x,y. ∃z. ∀w. S(x,y,w)⇔w=z
∀x,y,z. ∃u,v. ∀w. S(x,y,u)∧S(u,z,w)∧S(y,z,v)→S(x,v,w)
∀x. S(x,e,x)
∀x. ∃y. S(x,y,e)


"何か"によって私達はどう考えるのか?この答えは、あまりに私的過ぎる。論理的計算は証明プロセスを指すのであり、それはけっきょく記号操作だ(としか私は思わない)。また関数的計算も、形式がλ式であれ何であれ、やはり記号操作になる(としか私は思わない)。それらの言語"だけ"で考えている限り、それ以上の手立てを持ち合せてはいない。ところが計算する対象が見えると、舞台は関係と集合の世界に移る(だから小さな圏に限って議論すれば良いのだと云われたら、私は頷くかもしれない)。だが集合の海から関係の網を手繰り寄せることにも限界を感じるとき、チクタクと時を刻むオートマトンの世界が見えてくる。そこはもう工場のラインだ。算術回路の稼働率を上げるためにフローを組み変える日々、ふとラインの上に目をやると、流れてきたのは懐しきλ記号である、、

数学的には純粋な関係である関数も、計算として私達が意識するときは操作になる。歴史を紐解けば、超関数はおろか初等関数も長きに渡り厚いベールに包まれた存在であり、それらの扱いは一つの技術だった。関数というカラクリを分解し、論理という形で純化するに至る発端はFourierにあるだろう。Fourier級数の発見は「真理を読んだ」と語る程の衝撃を持っていた。やがて収束の神秘を紐解く過程で位相の概念が生まれ、微分操作を含んだより大きなクラスの作用素が構成されて行った。佐藤幹夫はアブストラクト・ナンセンスで記述した超関数を指して「実際にも計算できるよ」と言った、それが代数解析学となった。関数空間の理論は、黒魔術だった技術を計算機で構成可能な対象へと翻訳した。ここには確かに、概念が私達の思索の領域を広げた歴史を見てとることが出来る。私達の"何か"を、或いは計算機の"何か"を、黒魔術から構成的な対象へと翻訳する概念の発見を、一体誰が否定できようか?

逆数学と二階算術
ある数学的な活動を許す設定を探ることは逆数学として試みられている。いまある数学は二階算術によって十分に可能なのだそうだ(分類はもっと細かいけど)。

ちなみに、この話にオチは無いのだけど、、

0 件のコメント:

tags

Profile

Taito, Tokyo, Japan
明けども明けども次の埒
hiro.kosh@gmail.com